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語りへの誘(いざな)い 語り「中島大水路哀話」CD付き
著者:禅定正世
発行年:2000年
大阪ボランティア協会主催お話の語り手講座も20周年。「心で語る」活動の一つの集大成がこの本です。 “語り”は、物語が縦の糸となり、語り部の心が横の糸になる人と人をつなぐ紡ぎの活動です。 この本は、活動に関わる方を、そして物語を「聞く」「話す」ことが好きな方々を、 その“語り”の世界

【著者】
禅 定 正 世(ぜんじょう・まさよ)
1936年、福井県に生まれる。同県立大野高校卒。1968年に、自宅で子ども文庫(土曜文庫)を開く。以降、地域文庫活動や公共図書館設立運動など、子どものためのより良い読書環境づくりにとりくみ、多くの児童文学作家、出版人、研究者と親交を深める。
1980年から、大阪ボランティア協会、京都ボランティア協会などで「お話の語り手養成講座」の講師を努め、すでに1000人以上の“お話しボランティア”を世に送り出している。
 現在、デイサービスセンター「水仙の家」園長。「なにわ語り部の会」などでの「語り」の活動を通じて、地域社会の福祉の充実をめざしている。

く主な著書>
  『語ってよ 子守歌のように』 (エルビス社)
  『おはなし ほっとたいむ』   (水仙福祉会)

解説
大阪ボランティア協会主催お話の語り手講座も20周年。「心で語る」活動の一つの集大成がこの本です。 “語り”は、物語が縦の糸となり、語り部の心が横の糸になる人と人をつなぐ紡ぎの活動です。 この本は、活動に関わる方を、そして物語を「聞く」「話す」ことが好きな方々を、 その“語り”の世界へいざないます。

【はじめに】

■おばちゃんで始まる■
《人を肴に、酒を飲む》
 よく耳にする言葉ですし、食事などに出かけますと、実際そんな場面をしばしば見ることがあります。
 わたしの頭には、あまりよいイメージでは入っていないのですが、「こんな肴になれて、よかったなあ!」と、うれしい思いをしましたので、そのことを記すことから、この『語りへの誘い』は書き始めていきたいと思います。

 私事で恐縮ですが、わたしにはすぐ近くに息子一家が住んでいて、孫が三人おります。長年同じ地域に住んでいますので、息子が通った小学校に、孫も通っています。
  一昨年の秋、その小学校の運動会に一家で応援に出かけました。
 そこでわたしは、現役の母親だった当時の仲間と久しぶりに出会い、旧知を温め合いましたが、中でも、息子の同級生の何人かに再会したのは、うれしい限りでした。
 何故なら、その子たち(彼らはりっぱなお父さんでしたけれども) は、三十年余り前、いまの孫と同じぐらいの年頃で、わたしの家庭文庫に本を借りにきたり、狭い部屋の中で折り重なるようにして、わたしの語りを楽しんでくれたりした同じメイトなのです。
 「女房です」
と言って、いいお母さんを紹介してくれた子もいました。

 午前のプログラムが無事終わり、晴天の運動場で、三々五々お弁当をひろげましたが、息子の姿が見えません。やっと、午後の部が始まる寸前に帰ってきました。
 聞けば、彼らも久しぶりの再会をよろこんで、学校近くの食堂で、祝杯をあげていたとのこと。息子は興奮気味で、
「ねぇ、ねぇ、乾杯の肴は、何やったと思う?」と、聞くのです。「そんなん、わかるわけないやろ!」
 長く待たされたわたしが、幾分ふくれ面で言いますと、息子はニヤリと笑って、
「肴は、お母さんやでぇ!」
と、言うのです。日く、
「おばちゃん、歳とったなあ〜って。みんな、それがショックやったらしいわ。それから、文庫時代の話がはずんでな。土曜日になるとぜんてい(禅定をもじった息子のニックネーム)のとこ集まって、ようおばちゃんに本を読んでもろうたなあって、みんな懐かしいから、夜にもういっぺん、寄り直そうってことになったんや!」
 わたしは、ふくれ面を少しずつすぼめながら、「いい飲み口実ができて、よかったね!」と、憎まれ口をききましたが、内心は、みんなにビールの一杯も、
  − おおきに! −
と、ご馳走したい気分でした。

 その夜わたしは、彼らが高校生ぐらいになった頃に、彼らのことを思って書いた詩を、当時の資料の中から探し出しました。
 もうその頃は、わたしの家庭文庫は手狭になって、《土曜文庫》という本来の名前から《地域文庫 親星・子ぼし》と名をかえて、児童文化活動に理解と協力を惜しまない地域の母親たちと一緒に、公共施設の中に場を移していましたが・・・。

      親星・子ぼしに寄せて

  普段着の顔で いつもの街を歩いていくと
  微笑みを送ってくるまなざしに出逢う
  ポシェットが肩から揺れている
  中学生だったり
  緊張した制服姿の
  高校生だったり
  若者は 大人っぼく髪をかきあげたりする
  陽ざしがまばゆいばかりではない
  そのまなざしに ちょっとたじろぎながら
  わたしは あいさつを送る

  いつまでも 大切にしまっておきたい
  心の宝石箱を持っている人は
  人生をふり返ってみるのも いいものだ
  それが支えになって
  明日への希望が湧いてくるから

  まなざしの糸をたぐり寄せれば
  文庫で共に遊んだあの頃に たどりつく
  彼らの瞳は箱の中で 星になっている
  ひとつ ひとつは 光を放ち
  光のある場所は 周囲までもあたたかい

  太古の昔から ひとは
  何億年かかっても ただひたすら
  地上に向かって光を送ってくる星を見て
  心がふるえた
  星を仰ぎ 自己のゆくてを励まされ
  人生の旅を歩んだことか
  あの星たちの分身は
  わたしたちの住む街の片隅で
  幾多の輝く瞳になって 今日も生まれる

 そう、あのまぶしいまなざしの若者たちは、今は相方たちと次の世代を育み、輝く幾多の瞳たちに、秋空の運動場で声援を送っているのです。その彼らに、
  − 歳とったなぁ〜! −
 という、現実を見せてしまいましたが、若さと引き換えに、わたしにも幾つかの賜りものはありました。
 それは、何事にも時間をかけて待つという忍耐であったり、相手に合わせるという折り合いのつけ方であったり、たいがいのことにはめくじらを立てないという寛容さです。
 裏返せばそれは、我が身についていた能力の衰退なのでしょうが、あながちそうとも言えない意味深いものがあります。
 そのように思えるのは、人生の知恵とも言うべき、たくさんのお話に出会ったからでしょう。まさしく文庫に子どもたちが足を運んでくれたればこそと思うのです。わたしの語りを開いてくれたればこそです。これからだって、年齢相応に、

−酒の肴にでも、だしにでも、何にでもなるぞ!−

 と、思っていましたら、昨年は五年生の孫のクラスのお母さんたちに、運動場で夜空の星を見ながら、語りをしてほしいと招待されました。蚊取り線香、水筒、団扇、敷物持参で、兄弟姉妹を含めた家族が集まり、担任の先生の進行で会をもちました。
 旧暦の七夕の頃でしたので、星祭りにちなんで中国の民話「うしかいとおりひめ」や、夏の夜にちなんで怪談の「首無し行列」に加えて、谷川俊太郎さんの詩やイギリスのマザーグースまで、子どもたちと楽しみました。
 二回目は、節分の年越しを地域文庫で、先生をはじめお母さんやわたしの友人も一緒に参加して、百人一首やカルタとり、節分の語りに、みんなで豆撒きまでしました。

  もうわたしは、たいがいのことには驚かない歳になっているのですが、こんなことがあっていいのかということが、毎日マスコミを賑わしています。
 特に、親の子どもに対する虐待や、子どもどうしの陰湿ないじめなど、世相の反映そのままに、来る所まで来てしまった感じがします。
 いたずらに嘆いたり、したり顔に批判したりしても世の中は少しも変わりません。
 老いの入り口にいるとはいえ、もう二十一世紀が目の前に迫っているので、これからの世の中に期待する気持ちは、まだ十分にあります。

 今、わたしは、自分だったら何ができるかをしっかり定めました。
  《ひとつことを愚直に、できるだけゆっくりと着実に取り組むこと》をです。
 それが、わたしにとって三十年余り続けてきたお話を語ることなのです。

 幸いにも三人の孫は、わたしの語りの練習に協力してくれたり、ときには厳しい批評家(彼らは面白くなければ付き合ってくれませんから)だったりしてくれます。
「ねぇ、ばあやって、もしかしてベビーシッターのこと?」
 小学三年生の孫の質問に、
「ちょっと違うなあ、赤ちゃんや、小さな子どものお守りをするだけではなくて、お母さんより、世の中のことをよく知っていて、いろいろなことができたり、教えてくれたりもするんだよ」
 わたしが、ことばを探しながら応えますと、
「ふぅ〜ん」
 小首をかしげて返事をかえし、語りを中心に二人の会話がひろがっていきます。
 語りを通して、あらためて気付く美しい日本語、生活に根ざした生きている言葉など ー わく
わく気持ちが高ぶってきます。
 手ぶりを交えて、
  − 舞をひとさし、舞いました −
 と、「一寸法師」を楽しむ時は、語り手も聞き手も心をひとつにして、時代を越えて、さらに
世界はひろがります。
 わたしは、この小さな支援者たちを味方に、いままで培ってきたものの中から、必要なことと、
重要なことを、ゆっくり仕分けしながら、《肩こりほぐしの語り部さん》を目指してあるいてい
きます。
 ノンフィクション作家である柳田邦男さんは、常々、絵本は人生の中で三度出会うべきだと書いておられます。子どもの時と、親になって子育てをしている時と、そして、あらゆる束縛から自由になれる老年になった時であるといわれます。
 語りもまたそれ以上に人間が生きていく限り、出会いは、いつでも、どこでも、とわたしは思っているのです。

この書を手にしてくださった方、よろしかったら、語りの世界へどうぞご一緒しませんか!




目次

はじめに
― おばちゃんで始まる―

越し方に重ねる
― 高齢者の施設で―

うん、なーるほど
― 子どもたちに―

望みは胸いっぱいに
― 若者たちに―

お話探し

箸やすめ

わたしの作品から
中島大水路哀話
― 樋は語る、その昔―

口技を磨く

お話二十一選
― わたしのお話宝箱から―

おわりに
― おばあさんで終わる―

抄録

中島大水路哀話

    前    略

「おじいん、よう話しておくれやんした。借金返しや資金づくりに、乙訓郡の油屋で、汗水たらして働いてくれとるお父うや、住吉の干鰯(ほしか)問屋に奉公しとる五助兄の分まで頑張って、誰にも負けんように、みんなで励みまひょ」

 延宝六年三月十古の朝まだき、闇をついて待ちに待った仕事始めの合図の太鼓が、村々に鳴り響いた。
まだ水の引かないぬかるみを、トメ吉たち一家は、手に手に鍬やつるはしを持って、集合場所へと急いだ。

村々を挙げての、川作りの大仕事は、日夜を次いでこの年の十一月まで続き、後に「中島大水路」と名付けられたこの川は、すべて百姓たちの手によって完成した。

 田畑に余る水が、水門を開くと同時に、白いみずしぶきをあげて、下流へ下流へと走るのを見た時、大人たちは手にした道具を高くかざして歓声をあげ、トメ吉たちは、水の流れと競うように、自分たちが積み上げた堤の上を走った。

 みんな、
「これで孫子の代まで、もう水に悩まされずに安心して暮らすことができる。ありがたいこっちゃ!」
と、喜びあった。

 しかし、その完成を喜んだのも束の間だった。

 翌年の四月十日の朝、走り役が川筋の村人たちに、疾風(はやて) のように悲しい知らせをふれて廻った。
 百姓たちのあまりに見事な治水工事のあり様に、すっかり面目を失ったご公儀は、
 −この治水工事は、幕府の許可を得ずに勝手に断行したもの。ご公儀に対して、百姓たちの間に、不穏の動きあり −
と、噂を立てた。
 ご公儀に立てつくのは、きついご法度。
 この成り行きを心配した総代である三人の庄屋は、二十二ヵ村の村人たちの身を案じ、その安全を守るために、お互いが申し合わせの上、治水工事の責任をとって、昨日、自害して果てなさったというのだった。 村人たちには、けっして動揺を与えぬように、自害の場所はかたく伏せられたが、誰言うとなく、

  − 細目木社(さいのきしゃ)の森だ!−
 と、伝えられ、村人たちはその方角に向かって、手を合わせて涙にくれた。

 トメ吉と五兵衛じいは、それから三日後、いちめんに咲いた菜の花畑で、天高く飛翔して、声の限りにさえずる雲雀(ひばり)の声を聞いた。
 それは、あたかも三人の庄屋さまが、空から地上を見下ろして、

−ここは、われらの土地やぞぉ!−
−実り豊かに! −
−永久(とわ)に豊かに −

と、二人に告げているようだった。

(完)

ここに記した物語は、わたしが住む大阪市東淀川区淡路の地域に、昭和三十年代まで流れていた「中島大水路」という川の成り立ちを題材にして、語りに仕立てたものです。

 現在、「中島大水路」は、東海道新幹線の高架の下に埋もれてしまい、その姿を留めていません。町の様子はすっかり変わってしまいました。
 しかし、江戸時代の中期に、地域住民の苦労を重ねて作られた「中島大水路」は、現在の東淀川区の淡路から此花区の伝法まで9.5五キロメートルの長さがあり、その流域に住む人々の生活用水路として、その当時からずっと十二分に機能を果たしてきたのです。
 その後、明治三十二年の淀川大改修によって、その役目をおえました。


    後    略



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